舞台編のお稽古です。
缶の階の稽古場では、尺を長くとった抜き稽古や通し稽古を繰り返し行います。
流れを一度切れば、今ここで起こったことの上に成り立つはずだった展開が一つ、消える。つまり、最初からなかったことになってしまうということ。私たちは、物語における数々の展開を一つずつ検証していき、この場で何が正しいのかを見定めています。
稽古方法は膨大な時間と労力を要しますが、わかりきった結果、あるいは「わかったつもりになっている結果」へ向かって行くのは、とてもつまらない。どこに行き着くのか、どう落ち着くのかわからないけれど、わからないままに、物語の終わりへ向かって行くのはとてもスリルがあります。
そんな稽古場で起こり続けることを、私はいち観客として目撃しています。
正しく台詞を言うために、舞台編と客席編ともに特訓をしてきた成果が出始めています。缶の階では今、台詞の言い方がホットな話題となっています。一つの台詞を一息で言い切ってしまおうとすれば、台詞を言うこと自体が目的になってしまう。そうならないためには、一つの台詞の中にも物語を存在させることが大切です。質量、大きさ、方向、速度、重力、距離など…自分の中で、または相手との中で、言葉を制御できる要素はたくさんあります。
口をついて出た言葉であっても、必ず理由は後からついてくるものです。「台詞を言い始めてしまって」から、言葉が獲得しうるあらゆる要素を制御しつつ口にしていく。わからないことをわかるために彼らは話をする。
台詞を存在させることは、手に余る世界を制限することではあっても、その世界の人や物を制約することではないと私は考えています。
まだまだ、可能性を検証する余地はありそうです。
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